蜜の味は他者の不幸ではなく自らの幸福

平日に休むのは何故こんなにも心地が良いのか。謎を解明すべく、我々は自宅の部屋の奥地へと向かった。

何をする訳でもないし、特別な用事がある訳でもない。ただ祝日であれなんであれ、休日に休むという事自体に快感を覚える。それは何故か。

1つは、普段からの平日への恨み。俺は根っからの日本人であり、「月から金は仕事」という文化の根付いている勤勉少年であるため、この17年という月日を経て、脳の奥深くに平日への恨みが溜まっているのだろう。これは俺だけでなく、普段から平日頑張っているみんなもそうである。

もう1つ。「平日頑張っている奴を他所に休みを謳歌することへの背徳感と優越感。」これは俺しか聞いたことがない。というか人に言うと100割引かれる。当たり前である。

人間、理解できないことは他のことに置き換えると理解ができるものである。身近なもので例えよう。

「誰に迷惑をかける訳でも無いが、スリルと優越に浸れるもの」と言えばそう。

「集会の拍手で自分が一番最後になる」だ。

やったことが無い?

考えた事も聞いたことも無い?

さぞかしつまらない人生だったろうな。

しかし、日本語にもこのような表現ある。例えば、なにかとんでもないものを口にした時、「これは犯罪的だわ」とか、「ダメだってこれ」とか、「キンキンに冷えてやがる!悪魔的な美味さだ」など聞かないだろうか。

持論であるが、このような言葉の中に、うっすらとそういったニュアンスも含まれているのではないだろうか。

明らかに体に悪いもの。寿命を縮めるもの。

優越は無いかもしれないが、スリルという点では同じような感じなのがお分かりになるだろう。

話を戻そう。先程俺は、「他人に迷惑をかけないが、」という条件を置いたが、これに関しては少々違ってくるかもしれない。

なんせ優越感に浸るためには、身近に平日頑張っている奴が必要だからだ。

「学校頑張れ!俺は休むけどw」というのは、相手からの負の感情が伝わって始めて成立する。他者の中で俺が休んでいる中自分は頑張っている、という認知を俺の中でする必要がある。

自らの比較対象が存在することで初めて己の位置を見定めることができるのである。

だから常々、俺が休んでいる日にはことごとく全員が不幸な目にあって欲しいと感じている。何も死ねと言っている訳では無い。

靴紐が切れるとか、彼女にフラれるとか、鍵落とすとか、先生に怒られるとか。

こういった不幸を聞く事で、自らが休んだ価値が出てくる。俺が望んでいるのは他者の不幸ではなく、自らの幸福なのだ。

こんな事言ってる奴に友達が出来ないのも、自らに不幸が降りかかるのも当然の事である。しかしながら俺が不幸になる事で誰かの幸せになってると考えれば、あながち悪い物でも無いかもしれない。

うるせぇ幸せになるのは俺だけでいいんだよはよドブに落ちろ